2005年12月28日

ハワイの軍事関連施設ツアー+ゲート前ご飯持ち寄り集会

12月26日はオアフ島の西北にある軍事保留地Makua渓谷ゲート前でのクリスマスの祈り+ごはん持ち寄り集会に参加した。たどり着くまでの間、連れて行ってくださった方々からハワイの軍事化、軍事施設について教えてもらった。

パール・ハーバー
−ハワイの軍事基地化は1870年代から始まっていた。1876年に発効した互恵条約によりサトウキビの関税が撤廃され、ネイティヴ・ハワイアンの養魚地が集中していたパール・ハーバーは軍事施設として使用されることになった。これは1873年の米国本土からの「軍事視察」を機に高まったハワイの軍事化への関心と、プランテーションの経営者らの米国本土への市場の拡大への期待の結果であった。
−日本軍による攻撃後、パール・ハーバーの軍事基地としての重要性はより高まった。海は放射能汚染物質、PCBなどの化学物質で汚染されており、そこで獲れる魚介類は有毒である。そういった警告があるにもかかわらずやむを得ずそこで釣った魚を食する人はまだいる、という。

ワイケレ峡谷
−化学兵器倉庫として使用されている。

ルアルアレイ渓谷
−海軍無線送信施設があり潜水艦とも交信可能な海軍のタワーが2本そびえ立っている。電波の影響で発ガン率も高いという。またこの施設には核兵器が貯蔵されている。

マクア渓谷
−1940年代から軍事目的で使用されてきた。火事など事故も多い。割譲地や借地などで構成される約4900エーカー(2.6km2)を占める施設内には、ネイティヴ・ハワイアンが宗教的儀式などを行ってきた歴史のある場所が含まれており、軍事目的での使用、実弾訓練による土地の破壊への反対がなされている。現在は訴訟のため06年1月半ばまで訓練は停止される予定。

−今日のご飯持ち寄り会はこのマクア渓谷訓練施設ゲート前で行われた。フェンスにはバナーが掛けられ、ゲート前の道を通りすぎる車からは声援も。自己紹介後、参加者からはこれまでどんな運動に関わってきたのかということや、現在は立ち入りが制限されているマクア渓谷に対する思いなどが話された。少し暗くなってきたころには持ち寄ったごはんを食べた。
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OahuCloseUp. Makua Valley.gif
地図(Makua Military Reservation http://www.25idl.army.mil/makua/ より)を見ると軍事施設はオアフ島の西寄りに集中している。またオアフ島西は東に比べ農業に適さない土地が広がってもいるという。だが1921年のホームステッド法によりネイティヴ・ハワイアンに使用が許可された土地の多くは西側にある。連れて行ってくれた方はこれを“Environmental Racism”だと話していた。

posted by palala at 09:27| ホノルル ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | ハワイ・米軍基地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月23日

UARCその2

研究者・学生のための「研究費・リソースの確保」がUARC設立賛成派の理由であった。が、
11月中旬、大学教職員評議会(faculty senate)の投票で、ハワイ大学(UH)へのUARC設立が31対18で反対された。
12月上旬、これに続いて臨時総長(interim chancellor)も反対の意を表明した。
最終的には大学評議会(board of regents)の投票によって決定される。
大学評議会(board of regents)のメンバーはUHの他大学・カレッジ(ヒロ校、オアフ西校など)やコミュニティの意見をさらに聞いてから最終決定をする、と話している。

2005年秋学期間何度か関連イベントに足を運んだが、大学教職員の議論や投票の場(挙手による)がコミュニティに開かれているのはよかった。

議論の場には、AFSC(American Freands Service Committee)やDMZ Hawai'i(Demilitarization Hawai'i)のメンバーがStopUARC/SAVE UHのTシャツを着て参加し、またビデオを撮るなど議論のやり取りをチェックする体制をとっていた。
posted by palala at 04:05| ホノルル ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイ・米軍基地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月19日

メモ 台湾と沖縄

沖縄タイムス2005年6月17日「牡丹社事件130年ぶり和解」
 台湾側子孫ら、犠牲者の遺族に謝罪
「一八七一年、台湾の屏東県牡丹郷に漂着した琉球の住民五十四人が原住民族・パイワン族に殺害された牡丹社事件(宮古島民遭難事件)で、台湾側関係者の子孫ら十八人が十六日、来 沖し、那覇市の護国寺で犠牲者の墓を参拝した。訪問団が犠牲者の遺族に謝罪し、事件から約百三十年ぶりに“和解”が実現した。」
「牡丹社事件(宮古島民遭難事件) 琉球王府時代の1871年、那覇に年貢を納めた帰りの宮古の貢納船が暴風雨で遭難し、台湾南部に漂着した。乗員69人のうち3人が水死、残りは台湾原住民族・パイワン族の集落、牡丹社に救助を求めたが、54人が殺害された。生き残った12人は翌年、中国・福建省を経由し那覇に帰った。事件の報復を口実に、明治政府は74年、近代日本最初の海外派兵「台湾出兵」を強行した。」


asahi.com 社説・コラム2005年6月27日〈礎海〉平和の礎、緑陰の追悼 石に刻まれる戦争の記憶たち●沖縄と中台、歴史の交差
「台湾と琉球・沖縄とは地理的・歴史的に近く、地政学的緊張もしばしばだった。1871年、琉球・宮古の漂民54人が台湾屏東牡丹郷の先住民パイワン族に殺害された。日本は3年後、この事件を口実に台湾出兵を敢行した。近代日本の最初の組織的海外派兵だった。今月中旬、パイワン族の子孫20人が沖縄を訪れ、事件を謝罪し、犠牲者を祀(まつ)っている那覇市内の護国寺に参拝した。「台琉和解」を台湾のメディアは大きく取り上げた。」

posted by palala at 03:57| ホノルル ☁| Comment(5) | TrackBack(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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